黒澤明監督は、自分にとって、芸術のなかで、
見せる芸術のなかで、
最も大切なのは能だと公言していた。
「蜘蛛巣城」や「乱」を持ち出すまでもなく、
黒澤作品にはその影響が多くみられる。
思うように映画が撮れない時期、
黒澤監督は「能の美」という
ドキュメンタリーを撮ろうとしていた。
脚本も仕上げ、スタッフも集めて、
実際に撮影も行っている。
しかし次の映画が決まり、
「能の美」は幻となってしまった。
中尊寺で取材撮影中のことだった。
金色堂の横の白山神社に能舞台があった。
ひとり、ふらふら訪れると
不思議な既視感が降りてきた。
あっ、ここに違いない!
「能の美」は2日間だけ撮影を行っている。
フィルムも現存している。
その能舞台がここだったのだ。
旅の褒美もといえる出会いと時間。
中尊寺の撮影はカメラマンにまかせて
しばしその場に佇んでいた。
黒澤監督は能の何を残そうとしたのだろうか。
立ちあがろうとするものに眼を凝らしたけれど、
もちろん、音が鳴るはずもなく、
姿も現れることはなかった。
5月の風が吹き抜けるばかりだった。