口髭に白いものが混じったクリエイティブ・ディレクターは、原稿をチェックするときとかプレゼンの資料に目を通すときには、ゆっくりと老眼鏡をかけてからとりかかった。20代だったわたしにはその姿がなんとも優雅に映った。世のなかには歳はとりたくないと思わせる人がいる一方で、自分もあの人のように早く歳を重ねたいと憧れる人がいる。わたしは極度の近視だから老眼になるのは遅いはずだ。しかしそのCDとの打ち合わせが終わると早く老眼鏡をかけたいと心底思ったものだった。
 福井県の鯖江へはめがねの取材で訪れた。いまから20年もまえのことだ。
 いまでこそ鯖江のめがねは全国ブランドになっているけれど、その当時は裏方の、たしかな仕事に徹するだけで、日本のめがねの8割強はこの街で作られている事実を知る人はほとんどいなかった。
 何軒かのめがね製造所をめぐり、セルフレームや金属フレームができあがる工程を間近でみた。溶かしたり、固めたり、伸ばしたり、磨いたり、はめたり、とめたり、めがねは多いものでは200もの工程を経て完成していく。部品や工程の一つひとつは専門の工場・職人たちによる分業によって成り立っている。街全体がひとつの工房と表現したいところは、輪島の漆器と似たところがある。
 取材の途中で、あるショーウインドウにあっためがねに釘付けになった。リムはちいさく、セルのフレームも細身だったので、鼻眼鏡のようにちょこんとかけることができそうだ。フレームはこまかなところにまで研磨が徹底されていたので艶と深みのある輝きをはなって美しかった。これが鯖江の眼鏡か、鯖江の技術が活きている海外のものかはわからない。自分の老眼鏡を作るとしたらフレームはこれしかないと思って購入した。40歳のときだった。
 昨年、ついに老眼のレンズをいれる日がきた。そのフレームは20年にもわたって主のお呼びを机の引き出しのなかで寡黙に待ち続けたわけだ。
 そしてその日から仕事の時間になると、ゆっくりと老眼鏡をかけてから始めるようになった。たしかに優雅である。しかし少々面倒だというのは使ってみてはじめてわかったことだった。

関連記事

  1. 2024.5.19

    能舞台

     黒澤明監督は、自分にとって、芸術のなかで、見せる芸術のなかで、最も大切なのは能だと公言…

    能舞台
  2. 2020.12.30

    希望と、共に。

    今年も、なんとか仕事を納めることができました。社員と、恒例の、納会。思えば、たくさん…

    希望と、共に。
  3. 2024.3.30

    糸井重里と仲畑貴志のコピー展

      友人のコピーライターで、鎌倉で喫茶ギャラリー「アピスとドライブ」を営んでいる後藤…

    糸井重里と仲畑貴志のコピー展
  4. 2021.12.26

    「ラジオ・シャングリラ」公開収録にゲスト出演いたします。

    こちらも情報解禁となりました。 語り手、立川直樹 書き手、西林初秋…

    「ラジオ・シャングリラ」公開収録にゲスト出演いたします。
  5. 2024.3.13

    旅先の古本屋

    旅へでると半端な時間に思案することがよくある。どこかへ行くには時間が足りない。カフェで潰すに…

    旅先の古本屋
  6. 2021.11.12

    新刊『音楽の聴き方』発売決定!

    誕生日も旅の空の下。出張で鹿児島にきています。ありがたいことです。さて、お知らせを1…

    新刊『音楽の聴き方』発売決定!
  7. 2023.7.22

    島のLife Line。

     多度津の港から小さな船で1時間。その島には何もない。コンビニもなければ、自…

    島のLife Line。
  8. 2020.8.25

    橫浜、サンマーメン。

    橫浜の人は、全国の中華料理店で食べることができると思っているけれど、他県の人は、橫浜でし…

    橫浜、サンマーメン。
  9. 2023.4.18

    発売1ヵ月で重版決定!

     大阪のタクシー会社の社長・坂本篤紀さんの初めての本、「維新断罪」の制作のお手伝いをしました…

    発売1ヵ月で重版決定!