「スキットルはないけれどこれはどうだ」
バンブーの露天商のムッシュがガラスケースのなかを探して取り出したのが古いツーリストカップだった。
直径5㎝ほどの皮の円形のケース。蓋をあけると3段のアルミのカップが入っている。もちあげるとカシャカシャという金属のすれる音とともに小さなカップになる。使い終わると皮のケースにいれて、掌で上から押すと折りたたまれてケースにおさまる。旅の道具にこんなものがあるなんて知らなかった。血が騒いで、もちろん購入した。
むかしの人はなんて粋な小道具を使っていたのだろう。列車にゆられながらウイスキーをグビッと呑るのは極上の時間だけれど、その器がプラスティックでは味気ない。しかしこのカップを手にいれてからは、ときにバッグに、ときにジャケットのポケットにいれて列車に乗るようになった。
ウイスキーを生で呑るにはしんどいときがある。すこし加水することでウイスキーは開き、香りも立ち上がって鼻孔をくすぐる。口に運ぶと余韻だけを残して咽喉の奥に消えていく。そんなときにこのカップは重宝する。機能も佇まいも申し分ないからだ。
列車の窓辺に置いたカップを眺めていると、その機能以外の愉しみもみつかった。想像が翼を広げるのだ。古いカップである。皮のケースには擦れたり、傷ついたりしている。このカップはどんな人と、どんな旅を過ごしてきたのだろうか?パリの蚤の市でみつけたから恐らくはむかしの欧州を旅してきたのだろう。寒い地方だろうか。海辺を走る列車だろうか。
車窓をながれる風景を眺めながらそんなことに想いを馳せていると、時間はあっという間にたち、ウイスキーもなくなる。場所から場所の移動のはずが、時間の旅になっていく。
この愉しみを知ってからは列車の旅が好きになった。