白浜で仕事があった。その前日の予定がなにもなかったので、いい機会だと考えて朝一の「くろしお」で新宮へ向かった。
わたしにとって新宮は特別な町だ。中上健次が生まれ、育った町。その路地をみてみたい。その濃密な空気を吸ってみたい。
新宮はずっと行きたかった土地だった。
しかしあまりにも遠く、不便で、それ以上に安易な気持ちで踏み込んでは弾き返されそうな、畏怖に近いものも感じていた。
季節は春の入り口で、桜にはまだ早かったけれど南紀は十分に暖かかった。途中、紀伊勝浦駅で降りて、那智の滝をみにいった。どうして予定外の途中下車をしたのかわからない。きっとざらつく心を落ち着けたかったのだろう。
そしてバスで新宮へ。
ホテルに荷物を置くと中上健次の影を追って町を散策した。もちろん『岬』や『枯木灘』や『千年の愉悦』で描かれた路地はその姿を残してはいないけれど、差別と宿命と聖と穢れのなごりは通り抜ける風に感じることができて、暖かい日にもかかわらずわたしは身震いをした。
新宮市立図書館に「中上健次資料収集室」がある。突然の訪問にもかかわらず担当の方がいらして、小一時間ほど中上健次の世界について話しをすることができた。いろいろな資料もみせてくれた。その中に『岬』にもでてくる、自殺した兄の写真があった。その美青年振りに言葉を失った。
中上健次は高校を卒業後、この土地を飛び出すけれど、生涯、打ち崩すことも忌み嫌うこともできなかった。作家として成功してからは、この地のために多大な汗を流した。
この地なくして中上健次の世界なく、中上健次なくしてこの地の神話もない。被差別部落出身の中上健次がその世界と土地をさまざまな物語に仕上げたから新宮は文化と人権の町といわれるようになった。佐藤春夫も新宮の出身だけれど富豪の家に生まれた作家は文化には貢献したかもしれないが、いまもなお、日本や世界からこの地の空気を感じるために訪れる人が絶えないのは、人権の町にした中上健次の作品と生き方があったからだと思いたい。
お礼をいって中上健次資料収集室を出ようとしたら担当の方が、よければどうぞと中上健次が使っていた原稿用紙を1枚くださった。一瞬、言葉を失った。畏れ多くて使えない。自宅の仕事場の壁に貼った。
「書け」
原稿用紙をみるたびに、中上健次の声が聞こえる。