「野球をみにいこう」
 はじめてニューヨークへいったとき、連れのひとりがそういった。仲間といく旅のいいところは、ひとり旅では絶対に選択しない場所を経験できること。さっそく段取り上手がチケットの確保に動いた。数時間後、わたしたちのテーブルのうえには、翌日のシティ・フィールドでのニューヨーク・メッツ対ロサンジェルス・ドジャーズ戦のチケットが並んでいた。
 晴天にめぐまれた日曜日の午後だった。はじめての海外の野球場は、施設も人も雰囲気も日本とはまるで違っていた。球場は美しく、人は明るく、雰囲気は弾んでいた。あんなに鮮やかな芝生の緑は、日本のどの球場でもみたことがなかった。まさにベースボールが始まると静かな興奮が降りてきた。
 しかし試合が始まると静けさが降りてくる。鐘や太鼓や声をそろえた声援は響かない。ボールがミットに入る音がするばかり。空振りには溜息が、ヒットには声援がその後を追った。
 2001年当時のニューヨーク・メッツには新庄選手が在籍していた。そしてその日は新庄選手のさよならヒットでニューヨーク・メッツは劇的な逆転勝利を飾った。大歓声の地元のファンたち。日本人選手の活躍にわたしたちも興奮を抑えることはできなかった。
 そのときだった。球場にピアノの音が流れた。聴き慣れたイントロだった。そしてビリー・ジョエルの歌声が流れた。
ニューヨーク・メッツのホームグランドであるシティ・フィールドでは、試合が終わるとエンディングとして「ニューヨーク・シティ・オン・マイ・マインド」が流れる。ニューヨーク・ヤンキースのホームグランドのヤンキー・スタジアムの場合は、フランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」だという。
 野球といえば「六甲おろし」しか知らないわたしの耳に、暮れゆく空に吸い込まれるようなビリー・ジョエルの声は、一抹の感傷を呼び起こした。
 もう少しこの場にいたい。球場でそんなことを思ったのは、後にも先にもこのときだけだった。

関連記事

  1. 2023.3.18

    古本とラジオ

    劇場で「丘の上の本屋さん」、試写会で「午前4時にパリの夜は明ける」を観た。 …

    古本とラジオ
  2. 2018.9.18

    真夏のサクラ。

    8月15日に発売された、岩崎宏美さんのニューアルバム「PRESENT〜for you * f…

    真夏のサクラ。
  3. 2019.11.24

    人生で一番聴いた「アルバム」。

    FM COCOLOのメンバーがアルバムというパッケージ作品にこだわって愛着のある作品…

    人生で一番聴いた「アルバム」。
  4. 2023.7.11

    その靴屋の開店時間は朝の8時。

       ヨーロッパでもアメリカでも、エスタブリッシュメント的ポジションにいるビジネスマンはほん…

    その靴屋の開店時間は朝の8時。
  5. 2024.3.30

    糸井重里と仲畑貴志のコピー展

      友人のコピーライターで、鎌倉で喫茶ギャラリー「アピスとドライブ」を営んでいる後藤…

    糸井重里と仲畑貴志のコピー展
  6. 2020.1.13

    つつんで、ひらいて

    1万5千冊をデザインした装幀者・菊池信義さんと本をつくる人々のドキュメンタリー、…

    つつんで、ひらいて
  7. 2024.5.19

    能舞台

     黒澤明監督は、自分にとって、芸術のなかで、見せる芸術のなかで、最も大切なのは能だと公言…

    能舞台
  8. 2023.5.3

    香港の万年筆

      万年筆を使うようになったのは30代前半からだ。 昭和の作家は原稿用紙のマス目に彫刻す…

    香港の万年筆
  9. 2023.5.5

    車窓のツーリストカップ

     「スキットルはないけれどこれはどうだ」 バンブーの露天商のムッシュがガラスケースのなか…

    車窓のツーリストカップ