フランスにおいしいウイスキーもあるのですよ。そう告げるとちょっと驚いた様子のあとで、フランスのウイスキーかねと猜疑の影が目の隅に浮かぶ人を何人もみてきた。
「ミッシェル・クーブレイ」。ベルギーの出身だけれど、フランスのブルゴーニュ地方に本拠地を置くワイン商。しかし彼はウイスキーの魔力に取り憑かれてしまった。しかもスコットランド人ではないので、本場の伝統や慣習から自由だった。だからこそウイスキーの味わいを決定づけるのは蒸留所ではなく樽そのものだという信念を実行に移せたのだ。
大麦を育て、スコットランドで蒸溜した原酒をフランスのブルゴーニュ地方「ボーヌ」にある自身のカーヴへ運び、最高品質のシェリー樽でゆっくりと熟成させる。商業的な生産性には背を向け、評価や人気を気にすることもなく、趣味人の究極の遊びのようにウイスキー造りに没頭する。製造過程で国をまたぐためにスコッチ法の決まりで熟成年数を記載できず、蒸留所の名もスコッチという表記も許されない。
パリに滞在中、宿の近くのワインショップで彼のウイスキーが並んでいるのを発見したときは血が熱く騒いだ。試飲させてくれるという。ゆっくり流し込む。熱い航路が消えると咽喉の奥からナッツやフラワーなどさまざまな香りが立ち上がってくる。ちょっといい値段がしたけれど、ウイスキーはワインと違って1日で呑みきる必要はない。そう自分に言い聞かせて何本か購入した。
日本に帰ったら、冷え込んだ夜、好きな音楽を聴きながらゆっくり呑ろう。昂ぶる期待がわたしにおおきな過ちを犯させた。帰国のとき、割れてはいけないと思い、手荷物のバッグのなかにしまってセキュリティーを通ろうとしたのだ。気づいたときは後の祭りだった。液体は持ち込み禁止。くいさがったけれど保安検査官に聞く耳はなかった。
「プレゼント・フォー・ユー」
精一杯の負け惜しみを込めて保安検査官に渡した。彼はニコリともしないで2本のボトルをゴミ箱へ投げ入れた。

文庫本とウイスキーをポケットに入れて 1

関連記事

  1. 2020.12.30

    希望と、共に。

    今年も、なんとか仕事を納めることができました。社員と、恒例の、納会。思えば、たくさん…

    希望と、共に。
  2. 2020.8.25

    橫浜、サンマーメン。

    橫浜の人は、全国の中華料理店で食べることができると思っているけれど、他県の人は、橫浜でし…

    橫浜、サンマーメン。
  3. 2023.5.7

    新宮の原稿用紙

      白浜で仕事があった。その前日の予定がなにもなかったので、いい機会だと考えて朝一の「くろし…

    新宮の原稿用紙
  4. 2023.4.18

    『維新断罪』発刊記念イベント、無事終了。

    大阪のタクシー会社の社長・坂本篤紀さんの初めての本、「維新断罪」の制作のお手伝いをしました。…

    『維新断罪』発刊記念イベント、無事終了。
  5. 2020.12.12

    旅の相棒

    日曜日の午後、夕方のハイボールタイムまで、旅の相棒のお手入れ。J. M. WESTO…

    旅の相棒
  6. 2023.5.3

    香港の万年筆

      万年筆を使うようになったのは30代前半からだ。 昭和の作家は原稿用紙のマス目に彫刻す…

    香港の万年筆
  7. 2024.5.19

    能舞台

     黒澤明監督は、自分にとって、芸術のなかで、見せる芸術のなかで、最も大切なのは能だと公言…

    能舞台
  8. 2018.9.18

    真夏のサクラ。

    8月15日に発売された、岩崎宏美さんのニューアルバム「PRESENT〜for you * f…

    真夏のサクラ。
  9. 2024.3.13

    旅先の古本屋

    旅へでると半端な時間に思案することがよくある。どこかへ行くには時間が足りない。カフェで潰すに…

    旅先の古本屋